2012年04月22日

毎朝聞いていた鳥の鳴き声…

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現在、自分は山口県の長門市内で働いている。そこは、海辺だが裏山もあり、鳥の鳴き声が聞こえる素晴らしい自然の環境に恵まれた職場だ。

そこで、冬から春にかけてウグイスの「ホー ホケキョー」という鳴き声が、最初はすごくぎこちないのに、だんだん上手になっていくことなどを初めて知ったのだが…。

そこで時々耳にする鳥の鳴き声に驚いた。それは、

「ヘキチョー、ヘキチョー、ヘキチョー…」と聞こえる。なんで、驚いたかというと、その場所は、平成の大合併で長門市になったが、旧日置(へき)町なのだ。つまり、日置町に「ヘキチョー」とさえずる鳥がいるという…それで驚いたのだが…。

で、なんでそれがケニアのナイロビとつながるかというと…

ナイロビでは、毎朝6時半に「ティーチャー、ティーチャー、ティーチャー…」とさえずる鳥がいたのだ。自分で勝手に、ティーチャー・バード となずけていたのだが…結局、3年間その姿を見ることはなかった。まあ、実際に見ていたとしても、鳴いていないとその鳥だとは分からないからね。

それで、今の職場でなく鳥は「ヘキチョー・バード」と名付けているんだけど…。

死ぬまでに、そのティーチャー・バードも、ヘキチョー・バードもみてみたいものだ。
ニックネーム ハバリヤコ at 11:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | ケニア

2012年02月03日

ケニアでオートマチック車が盗まれない理由

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日本ではかなり前から、中古車でいわゆるマニュアル(トランスミッション)車を見つけるのは至難の業だった。とにかく玉が少ない。マニュアル車に乗りたければ基本、新車を買うしかない状況だった。

ところが、ケニアでは全く様子が違った。というか、オートマ車を見つけるのは至難の業だった。ナイロビにも、一応中古車屋さんはあった。日本のそれと比べると、スクラップが並んでいるようなもの。というか、日本のスクラップ場の車のほうが格段良い物が多いのは間違いない。

が、今日の記事のポイントはそこではなくて、ケニアで走っている車のほとんどはマニュアル車だということだ。オートマの方が楽なのに、なぜマニュアル車かというと、バッテリーが弱くなってエンジンがかからなくなったときに、オートマ車だとエンジンの押しがけができないからだ。そして、「エンスト=超危険」ということもある。つまり、車に乗っていること自体が、お金持ちの印だから、常に泥棒のターゲットになっているわけだから…エンストは死活問題なのだ。

とはいえ、自分がナイロビで暮らしたのは1994年からの3年間で、その当時は携帯電話は普及していなかった。日本でも、帰国してから爆発的に普及し始めた頃だ。今は、ケニアでもマサイの人々まで携帯電話を使っているのを以前テレビでやっていた。ということは、車を運転しながら携帯電話を使う人もいるだろう。ところが、一度やってみるとわかるが、マニュアル車を運転しながら、片手で何かをするのは無理だ。日本に帰国してからの話だが、通勤時間が長いとき、自分は運転しながら、朝食、歯磨き、ひげそりまでやっていた。マニュアル車ではどれも無理。ということは、ケニアで交通事故が増えるか…オートマ車が増えるかのどっちかなだと読んでいる。

どちらも命がかかっているからなあ…。まあ、ナイロビの治安が良くなっていたり、JAFのようなサービスが始まっていたら話は別だが…まず、それはどちらもないだろうから。
ニックネーム ハバリヤコ at 16:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | ケニア

2012年01月13日

1994年4月からの失われた3年間…

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最近、TVの歌番組で、例えば1994年に最もヒットした曲…などというコーナーがある。1994年の4月から3年間、ケニアのナイロビで暮らした。その間、一度も日本へは帰国しなかった。
ナイロビでの1年目は、ラジオジャパンを聞いたり、1日遅れで読むことのできる日本の新聞を読んだりしていた。テレビは2チャンネルしかなくて、1チャンネルはスワヒリと、もう1チャンネルが英語で、そちらはCNNのニュースを1日中流していたので、そこからも日本の情報は得ることができた。
が、それも最初の半年くらいで…だんだん、日本への興味が薄れる。あまりに、離れているので、現実味がないのだ。巨人ファンだが、巨人がメイクミラクルで優勝しようが、実感がなかった。パソコンは誰もが使っていたが、まだ、インターネットはよちよちあるきの状態で、ヤフーの存在さえしらなかった。
現在では、マサイ族の人達も使っているという携帯電話も、当時のケニアでは普及していなかった、そんな時代の3年間だ。
だから、確か、1993年の暮れのレコード大賞が♪おどるぽんぽこりんで、自分たちが日本を離れた1994年のレコ大が、ミスターチルドレンの…と、そこまで聞いたときに、子供にミスターをつけているのだから、2年連続でコミックバンドが受賞か…と本気で思っていた。
まさに、失われた3年間なのだ。
そして、帰国すると、アフリカへ行く前にはなかった、携帯電話、プリクラ、金髪、下げパン…などが巷にあふれ…ホントに、浦島太郎状態だったのを、今でも覚えている。
ニックネーム ハバリヤコ at 16:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年01月01日

大地溝帯でみつけた‘わらび’〜阿蘇山・平尾台・秋吉台がつながる

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ケニアで3年間暮らした。最初の年は、見るものの全てが新鮮だった。1994年当時はまだ、デジタルカメラが身近なものではなかったから、フィルムのカメラで大量の写真を撮りまくった。そんな気持ちが少しずつ薄れていく。
そんなことが仲間との会話の中にも垣間見えていた。四国出身の同僚が、「アフリカアフリカっていうけど、家の田舎の風景とそんなには変わらないよ!」って。それは自分の場合も同じで、ケニアのナクル湖やナイバシャへ行った時に、生まれて初めて‘大地溝帯’を見たとき、自分の生まれ育った山口県の秋吉台の風景や、親父の故郷である熊本県の阿蘇山の風景と重なった。
しかも、大地溝帯に足を踏み入れてみつけたあるもので、ホントに故郷の山と重なる。それはなんと、蕨(わらび)だった。わらびは、おふくろの故郷である福岡のおばあちゃんが元気な頃、毎年乾燥させて送ってくれていた。
また、自分が小学生の頃、秋吉台への遠足というのがあったけど、そこでたくさんお‘わらび’が生えているのをみていたし、当たり前のように採って帰っていたように記憶している。
アフリカの大地溝帯と、自分の親父の故郷である広大な阿蘇山、お袋の故郷である福岡にあるカルスト台地の平尾台、そしてその2人が結婚して移り住んだ山口県にある、カルスト台地の秋吉台それが、全て‘わらび’でつながった感じだ。
ニックネーム ハバリヤコ at 09:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | ケニア

2011年12月18日

ナイロビでのパーティには遅れて行くべし!

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今日午前中、風邪気味でもあったので、午前中おとなしくネットサーフィンしていた。あるブログに、忘年会の記事がり、その最後に「遅刻しませんように」と書いてった。全くひっかかるところでも何でもないのだが…ナイロビでの忘年会を思い出し、懐かしいなあ〜と思った。
これまでにも、このブログで書いたかもしれないが、ナイロビでは、パーティなどには遅れて行くのがエチケットだった。
それは、日本人が企画し、日本人が参加する日本人会の忘年会でも同じことだった。
しかも、最初に日本大使館で「日本人にとっては、約束の時間に遅れないというのが美徳かもしれませんが、ケニアでは違います。特に、パーティなどに呼ばれても、決してその時間を守ってはいけません。また、その時刻より前にそのパーティ会場に訪れることは、失礼ととられることもあるので気をつけるように」と注意された。
それを聞いたときには、すごく抵抗があったのだが…まあ、考えてみるとパーティを準備する方も、あまり早くから来られるのも迷惑かもしれないなとも思えた。
そして、半年もたたないうちにその、スワヒリ語でいうところのポレポレ(「ゆっくり、ゆっくり」という意味)生活にもすっかり順応して、日本人がいかに時間に対してストイックというか、逆にかりかりしているようにとられていることを知った。
ポレポレの反対語は、ハラカ(「急げ!」という意味)といい、日本人は「ハラカピーポー」と言われていた。
パーティー会場には、ウェルカム・ドリンクが用意されていて、会場に着いたら飲みたいものを飲む。日本のそれのように、最初の乾杯まで、ず〜っと待つなんてことはしない。そして、いくらべろんべろんに酔っぱらっても、自分で自分の車を運転して帰る。公共の電車などはないし、夜中にタクシーに乗ることの方が危険だったから…。
そんな3年間だった。さすがに、まだ道を良く覚えていない最初のパーティからの帰り道は、ちょっとびびったが…逆に酔っぱらっているから、怖くなかったのかも知れないね。
さしずめ、ナイロビで同じブログを書いたら、「開始時間はいちおう7時!あんまり早く来ないでね!」って感じかな…。
ニックネーム ハバリヤコ at 23:05 | TrackBack(0) | ナイロビ

2011年11月03日

スワヒリ語で1から10までの言い方…

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ナイロビで3年間暮らしたが、どこでも英語が通じるので、スワヒリ語は習得できなかった。テレビは、2つのチャンネルがあり、そのひとつはスワヒリ語だった。新聞もいくつか発行されていたが、スワヒリ語の新聞は結局目にしなかった。
ご存知のように、スワヒリ語は人工の言葉で、基本的には音声言語だから新聞がなかったのかなと、今になって思うのだが…。

現地に暮らしているときは、そこそこスワヒリ語が分かっていた。そう、朝夕のあいさつとか、1から10までの数の言い方とか…。しかし、帰国してからもう15年目。さすがに、数字の言い方もいい加減になってきたので、ここで確認しておこう。

1…モジャ
2…ンビリ
3…タトゥ
4…ンネ
5…タノ
6…スィタ
7…サバ
8…ナネ
9…ティサ
10…クミ
11…クミ・ナ・モジャ
20…イシリニ
30…セラスィニ
100…ミア・モジャ


情けないけど…自信があったのは1から3までだった。スペイン語だと「ウノ、ドス、トレス…」、フランス語だと「アン、ドゥー、トロワ…」と、どれも1から3までくらいしか覚えていないな…。しかし、しゃんともう一度スワヒリ語の勉強をしなおさないとだめだな。
ニックネーム ハバリヤコ at 09:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | スワヒリ語

2011年09月03日

もったいないことしたその2〜セイシェルに行かなかったこと

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アフリカに暮らす3年間で、健康管理旅行としてヨーロッパの国々を訪問した。イギリス、フランス、イタリヤ、ドイツ、スペイン、ポルトガル、ギリシャなどだ。

しかし、ヨーロッパもいいけれど、今思えば、アフリカ大陸の東側にあるセイシェルや、モーリシャス、マダガスカルという島々への旅行をしておくべきだった。

ヨーロッパへ旅行することさえこれからもないだろうけど、セイシェル、モーリシャス、マダガスカルへ行くことは死ぬまでないだろう。アフリカでさえ…。

だからこそ、ヨーロッパではなく、セイシェル、モーリシャス、マダガスカルはおさえておきたかった。まあ、それを言えば、日本国内だって、住んでいる同じ中国地方の鳥取県にでさえ、死ぬまでいかないかも知れないという点では同じなんだけど…。

まあ、アフリカから帰国して自分がサーフィンを始めるなんて、思っていもいなかたし…。でも、もし今のようなコア・サーファーのままアフリカへ赴任していたら、ストレスで死んでたかもしれないね。逆に。海まで500kmも離れた場所に3年間だからね。
ニックネーム ハバリヤコ at 16:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | ケニア

2011年08月20日

モンバサまで片道500km〜今思えばもったいないことをした

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四方を海に囲まれた島国、日本に生まれ育ったので全く海に接していない国、ザンビアに仕事で出張したときには息がつまるかなと思ったがそうでもなかった。
というのも、3年間暮らしたケニアのナイロビも、海から500qも離れた内陸部だったからだ。日本だと、海水浴をするために500qの距離を移動するなんて考えられない。
山口県の富海というJRの駅から東京駅までがちょうど1000qと言われているから、その半分だと大阪あたりまでか…。

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それでも、毎年のように数家族で車何台かを連ねて海まで走っていた。日本に比べ圧倒的に車の数は少ないが、高速道路が完備されているわけでもなく、アスファルトの道路に突然穴が開いていたり、もっと怖いのは大型の動物が道を横切るのので、それををはねてしまうケースだった。

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そんな苦労をして何度も訪れたモンバサだが…お金を出せば、ウインドサーフィンのレッスンとかを受けることができたのに…。せいぜい、ホテルのテニスコートでテニスをしたり、安いゴルフコースに出てゴルフをしたり。海でも泳いだが、海辺のプールサイドでごろごろしていることの方が多かった。
帰国して、自分がサーファーになるとは夢にも思っていなかったから…。
ニックネーム ハバリヤコ at 13:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | ケニア

2011年07月31日

アフリカの角で飢饉1900億円緊急支援をと国連が発表

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現在東アフリカ地域が飢饉で、1900億円の支援がすぐにでも必要だと国連が発表したというニュースをラジオで聞いた。(詳しくは、追記の【参考にした記事】を参照のこと)
そこで、初めて知った「アフリカの角」という言葉。英語では、
Horn of Africaそして、アフリカの角と言った場合、どの国や地域のことをさすのかというと、
「アフリカの角に明確な境界はないが、おおよそ次のような範囲である」とウィキペディアにはある。
※ソマリア、ソマリランド、プントランド、ジブチ、エチオピア東部、エリトリア南部、ケニア北東部

そう、1994年から1997年まで3年間暮らしたケニアも含まれているのだ!

が、実際に住んでいたのはナイロビなので…そこでは、飢饉や飢餓といった日本人が日本に住んで抱くアフリカのイメージとは程遠い状況なのだ。つまり、ナイロビはおそらく、東アフリカで最も豊かな都市であるに違いない。日本人が3年間暮らしてもそう感じた。もちろん、帰国して日本の田舎町とくらべても尚、ナイロビの方が物がなかったと感じることはあってもだ。

今日本は、東日本大震災からの復興で、別の国に手を差し伸べる余裕はないかも知れないが、個人の支援では間に合わないのではないか…。日々、子供たちが飢饉で死に面している。そんな場所に、手を差し伸べるのは持てる国の義務ではないのか…。今の日本政府にそんな決断を期待するのは無理なことか…。
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ニックネーム ハバリヤコ at 07:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年07月05日

2011.7.5の報道ステーションのコメンテーターの発言に???

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2011.3.11 の東日本大震災以来、日本ではエコが脚光を浴びている。

そんな中、2011.7.5の報道ステーションで、充電式のテレビなど、停電しても使えるアイディア商品を紹介した後での五十嵐浩司のコメント。

「20年前にナイロビで3年間暮らしたが、そもそも見るテレビもなかったし、停電や断水はしょっちゅうで、朝顔をあらった水で洗濯をし、最後はその水をトイレで使った…」というようなことを言っていた。

自分は、1994年から3年間ナイロビで暮らした。今から17年前だから、五十嵐氏とのタイムラグはわずか3年。その3年間で劇的な変化があったとはとても思えない。なぜなら、自分たちが暮らした3年間で生活はほとんど変わらなかったから…。

まず、テレビはあった。チャンネルは2つしかないけど…でも、テレビの放映が始まったばかりという話は全く聞かなかった。

停電や断水は確かに、日本と比べるとしょっちゅうあった。しかし、自分が住んでいたメゾネット(西洋長屋)では、水道は2系統あって、断水時でも庭の水道だけはでるというような工夫がしてあった。だから、そこからバケツに水をくんで、トイレのフラッシャータンクに入れたりしたいた。また、バケツに一杯で体を洗い、2杯あれば髪まで洗えた。

加えて、ナイロビではメイドさんやドライバーさんを雇うのは、現地の人の雇用促進にもなるので、日本人は抵抗を感じる人もいたかもしれないが、多くの人はそうしていた。だから、水を2階のトイレのフラッシャータンクに入れるのはメイドさんの仕事だ。

ま、いいか。誰も、アフリカはケニアのナイロビの暮らしなんかそんなに興味はないだろうから…。

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ニックネーム ハバリヤコ at 23:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記